ご覧いただきまして、ありがとうございます。
私事で恐縮ですが、ざっと自己紹介させていただきます。最後までお付き合いくださいね。
はじめまして、いい日さんです!
私の生き方を「~介護士が楽しく生きている日々~」として、YouTubeとX(旧Twitter)を中心に届けています。
現在までの経歴 ~生い立ち~
誕生~保育園~小学校
1982年の春に、山形県で3人兄弟の長男として生まれました。
小学校では、勉強は得意ではないけども、スポーツ大好きな少年でした。スポ少で夏場はソフトボール、冬場はスキーをエンジョイ!
そんな高学年のある日、急に親が離婚。兄弟と共に母方に引き取られました。急に住む場所も変わってしまい、環境の変化から反抗期が激しかったように思います。
幸せな家族が一気にどん底に。本当にビックリした数日間でした。
波乱万丈のスタートの中学生活
中学校入学し心機一転、これからという時でしたが、春先の心電図検査でひっかかり、精密検査の結果、まさかの先天性の心臓病が発覚、心臓の手術のため1ヶ月程休学。手術なんて、テレビの中の出来事だと思っていたので、本当にまさか自分が…そんな気持ちでした。病室のテレビで「家なき子」を観ていました。
入院していた病院は、当時の住居から数時間の場所だったため、とっても心細かったです。そんな時、母親はどんなに忙しくても、できる限り傍にいてくれました。この頃、反抗期真最中の時期で、素直に「ありがとう」とは言えませんでしたが、親の愛情を行動で示してくれていました。今でも、本当に感謝していますね。
そのお陰で、野球に没頭できました。朝から晩まで野球に明け暮れていました。
最後の中体連では「打順:4番、守備位置:ファースト」
甲子園で活躍して、プロ野球選手になることを夢見ていましたね。
甲子園を目指して強豪高校へ
高校進学あたっては、「仙台育英」「東北高校」「秋田高校」「常総学院」「PL学園」…と甲子園に行ける学校を目指しましたが、結局、地元からは離れた県内の中でも強豪校へ進学。同中学校からは1人でした。この頃から、人と違った道を歩くことには何の抵抗もありませんでしたね。
しかし、初日の練習でその自信が粉々に砕け散ることになります。一緒に入学した同学年のレベルの違い・力の差が凄かった。そりゃそうか、県内の活躍した選手が集まっているのだから。
「そ、そんなバカな…こんな世界があるのか…」といった気持ちでしたね。野球をするために選んだ高校だったので、目標を見失いかけました。
練習もきつく、何度も逃げ出そうと思いましたが、相談した監督さんから「お前の人生は、これからだ。何のために家族を巻き込んでココに来たんだ。自分だけの人生じゃないはずだ、よく考えろ…」と喝を入れてくださり、3年間やりきることができました。
勝利を得る喜び、強豪校というだけで、ユニフォームを着ているだけで気持ちが昂る。今思えば、いわゆる「ブランドの力」だったのだと思います。
レギュラーとして試合に出れずギリギリベンチ入り。甲子園にも出場できず、プロ野球選手にもなれませんでしたが、裏方に回りながらも、この3年間の経験は今に繋がる大切な時間でした。
介護を学ぶために専門学校へ
正直、もともと介護の仕事をしようと思っていた訳ではありませんでした。なにせ、野球ばかりの毎日で、プロ野球選手だけを目指していたので。
介護の仕事に繋がるきっかけとしては、おばあちゃん子だったということでした。
そんなこんなで介護保険が始まった平成12年(西暦2000年)の春、介護の世界に足を踏み入れることになります。
あの頃は『認知症』も『ボケ』『痴呆症』と呼ばれ、「飯しゃあまだかい?飯しゃあまだかい?…」と、おばあさん役の志村けんさんのコントをよくテレビで観ていたものです。
2年間の専門学校生活を経て、無事に介護福祉士の国家資格を取得して、介護の仕事を開始することになりました。
介護福祉士として頑張るぞ!!
晴れて介護の仕事へ~20年以上~
初めに就職したのはグループホーム(認知症対応型共同生活介護)でした。ゆったりと、認知症の方々と生活し、認知症ケアの大切さを学びました。
その後、介護老人保健施設に職場を変えて、認知症専門棟・一般棟・通所リハビリテーションと経験し、合わせて20年以上介護の世界に関わっています。
経験を重ねる中で、現在は施設内の介護責任者を任せていただき、職員の人材育成も含めて、今日も利用者様・ご家族様の人生に関わらせていただいています。
人と人との関わりであるため苦労もありますが、それ以上に、人生の先輩方から笑顔と元気をたくさんいただいています♪
介護士に関する所有資格
- 介護福祉士
- 認知症ケア専門士
- 介護プロフェッショナルキャリア段位制度評価者
- 介護福祉士実習指導者
- 認定特定行為業務従事者(第2号研修修了者)
家族
妻と3姉妹の5人家族でございます。
家族の中に男が一人で、少しだけ肩身が狭いところです。
趣味活動~音楽~ソフトボール
私の趣味活動には、大きく分けて二つあります。
一つ目は【音楽】です。
20代の頃には、よくフェスやライブに行っていました。
アコギを持って路上ライブや、バンド活動(ベース担当)もしていましたね。
簡単なコードを覚えてしまえば、ギター1本で自分の好きな歌を歌ったり、歌をプレゼントできたりします。おススメです♪
音楽には、本当に救われてきました。音楽を聴いたり、歌ったり、今でも大切な時間です。
二つ目は【ソフトボール】です。
社会人になってからは野球をしていましたが、現在はソフトボールに落ち着いています。趣味になるとは思っていませんでしたが、運動不足解消のために今も継続しています。高校時代の監督のチームとも対戦したりと、人生は人と人との繋がりだと感じています。
副業に挑戦しようと思ったきっかけは?
今思えば、「違う世界を見てみたい」「新しいことに挑戦してみよう」と決断したきっかけは、友人の勧めもあって参加した【オンラインサロン西野亮廣エンタメ研究所】でした。
それまで、職場やオフラインで繋がってきた皆さんと、直接繋がるしかなかったコミュニティから、zoomでのやりとりやSNSでのやりとりを、全国のみならず全世界の方々と交流できるという現実を知るにつれて、「自分次第で可能性を広げられるんだ」と思うようになりました。
そして、クラウドファンディング等、【応援し合う文化】を学んだのもこの頃だったと思います。
それまでは、「お金も持ちはいいよなぁ、私なんかは、一生働いて2億円くらいだろうな」とかテレビの情報を見てつぶやいているくらいでした。
でも、自分の自由な時間を手に入れて、自分が本当にしたいことをしたいだけ、つまりワクワクドキドキし続けられるようにしたいと思うようになったんです。本当に、自分の人生観が徐々に変わっていきました。
ちなみに西野亮廣さん、鴨頭嘉人さん、中田敦彦さん、両学長さん、大河内薫さんからも、たくさん刺激を受けています♪
お金の勉強にも興味を持ち、ふるさと納税、積立NISA、暗号資産やNFT、企業型DC等、今も日々勉強しつつ触れています。
いよいよ、KYOKO先生の副業の学校へ入学
副業を本格的に学ぼうと思った時に、迷いなくKYOKO先生に学びたいと思いました。
VoicyやYouTubeで以前から知っていましたが、わかりやすさなど飛びぬけていました。
2022年2月より、副業の学校生として学習しています。毎日継続して、夢を現実にしたいと思っています。
副業を学ぼうと決断した時に、文句なしにKYOKO先生に決めました!